大河ドラマ『いだてん』よかったじゃんね-「語り部」について

 「今年は定期的に心を逃がすぞ!」という目標の下、人生で初めて大河ドラマ『いだてん』を最初から最後まで観た。

 

 一年を通じて鑑賞して、本当に心に刺さりまくった作品であり、好きなポイントなんて山ほどあるが、特に「語り部」について書いてみようと思う。

 

 大河ドラマでも朝ドラでもナレーションが付いているが、ナレーションとして喋っているのは物語中の人物であることが多いように思う。それは物語序盤で亡くなる主人公の祖母であったり、主人公の子孫であったりと様々で、このような人物のことを私は「語り部」と呼んでいる。

 このような「語り部」に気づく以前は、ナレーションを小説で言う地の文(三人称視点的な)のようなものと認識していた。その無機質な役割が本当は物語に関わる人物だと認識した瞬間、情が湧いて来るような感覚を得る。

 

 話はそれるが、物語の演出によっては、ナレーションが実は語り部だったと明かされる展開があり、私はこれが極めて好きで、毎回衝撃を受ける。冷静に場を解説していた訳では無く、関係者として感情を持って語っているのだと気づくためだと思う。その瞬間今までのナレーションに込められていた感情に思いを馳せることになり、この考える時間がたまらなく好きである。最近で言えば大河ドラマ西郷どん』や漫画『まちカドまぞく』が上げられる。

 

 話題を戻す。『いだてん』では初めから「語り部」であることが明示されていたが、この語り部は2人いた。1人は実在した落語家の古今亭志ん生で、もう1人は今作のオリジナルキャラクター「五りん」であり、後者が何者かは序盤で一切謎だった。

 だけ語れば、金栗に縁の深い、物語の重要なポイントで様々な無念を抱えた親子三代の孫の代が五りんであることが徐々に判明する。視聴者にとれば五りんの出自が判明するだけで無く、五りん自信も彼のルーツを明らかにしていく物語進行になっている。それは伏線回収のオンパレードであり、散りばめられた物語の点全てに私は情が移っているのでたまらなく楽しかった。

 

 私自身勉強不足であるが、大河ドラマはある一人の一生を描くものという認識があった。他方で、第一回オリンピックから東京オリンピックまで描く今作は約60年間を描く群像劇でありながら、五りんに至る親子三代を一つの軸に据えた物語だったのだと思う。その時間と人物によって生まれる厚みは中々味わえない物かもしれない(似た感情をTVゲーム『ドラゴンクエストⅤ』で味わった)。その厚みと「共に何かを追いかける」役割として、今作の「語り部」は視聴者にかなり近く、かつ物語のメインの一つであった点で、『いだてん』の「語り部」は他と一線を画す物であった。宮藤官九郎さんに一生ついて行く。

やりたいこと

140文字に言いたいことをパックする能力も大事だが、もう少し長い文章を纏まりよく書く能力を育てないと日常生活に支障をきたし、行く行くはコミュ障地獄に落とされて日々支離滅裂なよくわからない話を60年間聞かされ続ける。

これを避ける努力をするためのブログです。

また、もう少し人間の良心や文化に頼りながらまともな話をストックしたい願望があるので、これも目指すところです。飲み会で裁判の話やダーウィン賞の話で嬉しくなってばかりではマズイという危機感がある。

 

以上2点が基本的な目的です。